WANDERLUST

"袖触れ合うも他生の縁"

2022年と2023年の話

長いことこのブログを開いて書いていなかった。書く気力がゼロだったので。

2021年は9月頃からどんどんメンタルが落ちていき(きっかけは大体分かってる、それに続いてボロボロと何か剥がれていった)、そんなことがあったので2022年は目標を立てることもせず、とりあえず生きようと思っていた。でも以下の言葉だけは噛み締めるようにしてた。メンタルが落ち始めてからは余計に、日々死にながら生きてる感じだったから。

「人間は、お金を稼ぐために健康を犠牲にする。そして、そのお金を使って健康になろうとする。人間は、将来を心配しすぎて、今を楽しまない。結局、今を生きていないし、将来にも生きていない。あたかも死が訪れないかのように。そして、生きることをしないまま死んでいく。
―― ダライ・ラマ14世チベット仏教の最高指導者(ノーベル平和賞受賞))

 

結局精神的には5月頃まであまり優れず、まあでも次に進むんだと思ってそのための準備を始めてからはなんとなくゆるゆると浮上した感じ。

あれやこれやを通して分かったのは、私は思っている以上に人との心のやり取りが必要なタイプであること、単調な作業は嫌いではないけど自分にとっての意味意義を実感出来ない仕事に人生を費やしてると病んでいくこと、必要以上に自分に重石を乗せて生きていたこと。

コロナもあると思うんだけど、エネルギーを抑えて生きていた、社会人になってから。

2022年に決めて始まっていく2023年からのことがどう転ぶのか全く分からないけど、一応期間限定というので、そういう気持ちでゆるっとやっていこうと思う。その先のことは少しずつ考える。

その時には改めて、自分は何が好きなのがどういうことが大事なのか、何が得意なのか、一つなのか複数なのか分からないけど、そういうものを併せて進んでいけたらなと思うのと。

2023年は以前まで持っていたはずの前向き全開の気持ちにまた出会えるように生きていこうと思う。自分のそういう気持ちから目を背けないで生きるって決めました。

 

今年も大事な人たちと私が、たくさん幸と出会えますように。

 

 

2022年5月19日 満たされた日

 

2022年5月19日、神戸国際会館こくさいホールにて、SUPER BEAVERのライブだった。今回も一人参戦だったけど、この日はとてもとても満ち足りた日になったので、その時の気持ちができるだけ褪せないように、数日噛み締めた今日その記録をする。

2016年から年一目安でビーバーのライブにお邪魔して、その度に色々なメッセージをくれるので泣かない時は勿論ないのだけど、今回は色々なタイミング、自分の心の状態、ライブ後の大事な人々とのやりとりと、全てのピースがかっちりハマってカタルシスのような何かを得た気がした。

尚、この日好きだった言葉たちは以下の通り。中でも最後のが一番好きだった。(一言一句正確ではない)

「頑張らなくても良いと言うのは無責任だと思っていて、頑張らないよりは頑張った方がいい、自分のために頑張れるのは自分しかいないから」

「生きるために未来の約束を、また次に会う約束をする。未来の話は生きていないとできないから」

「真っ平らな自分というものがあって、新しく大切な人やモノが増える度にそれらは目立って鎮座しているけれど、それらはいつしか自分の中に溶けていって自分の一部になってフラットになる。でふと気付いた時に失ってしまったらそこがぽっこり穴になる。」

最後の言葉の何がよかったかって、丁度、少し前に大切な人に会えなくなってしまうかもと思った時期があって、それがすごく重なって響いた。幸い失っていないけど。

言葉を聴いた時に、その人のことが真っ先に浮かんで、ああいつか一緒にライブ行けたらいいなぁとか思ったりして。ライブ直後、矢も盾もたまらず、本人にLINEをしそれを伝えたところ、私の舞い上がった熱量にあちらも呼応してくれて、あちらの想いなんかもシェアしてくれて。その一連の流れ全てが満ち足りてた。魂のコミュニケーションだった…気がする…。

その人以外にも、数人に感謝と愛を伝え(重い)、やりとりをするなど。はあ満たされていた…。

 

ビーバー自体も好きだけど、歌や渋谷さんの言葉を聴いた時に私の頭にたくさんの人の顔が思い浮かぶことがとても尊い。彼らは本当に歌もライブ中の言葉も、誰かを思い出させてくれるような、いつもそこにある何かを大切にしてるかっていう問いかけをくれる、たとえライブの場に本人がいなかったとしても。本当に大好きな人たちいつも有難う。

そして、きっと私自身も、いくつかの人にとってはそんな存在であって、だからこそ生きようと思う糧になっている気がする、それも尊い。自分が引っ越しをして遠くに行くって時にガン泣きしてくれる友人がいたなんて本当に尊いんだよね。別れが悲しいのは大きな意味を持った人と出会えた証拠だと歌っているけれど本当にそうだなって。

通したい自分のエゴを貫くこと、好きなものを好きだと言い続けること、自分の気持ちに蓋をしないこと、大事なものを大事にすること、どれもシンプルだけどとても難しいと言うことはそれなりに知っている。けれどそれでも生きて未来の約束をして、文字通り胃に穴が開いても、心無い人に絶望に落っことされても、生きて続けてきてくれたビーバーを見習いたい、私もそうやって生きたい。


確か、いつだかのライブで、渋谷さんが言っていた。(言っていなかったらごめんなさい。でも似たようなことは絶対言ってた)

それなりに長くバンドを続けていて、自分らより先に生を終わらせてしまった人がいた、それを見て思うのは、生きていれば努力すれば何でも叶うなんて無責任なことは言わないけれど、生きていなければ何にもならないと。そしてそれこそ生死彷徨うかもしれない目に遭っても意志を持って続けてきた人だからこそこの言葉の重みがずっしりくる。

私はまだ “27”の歌詞の、できれば死にたくないな、というフレーズは自分の中に浸透させられていない。いつかもっと生きたいと思う日が来るのかは知らないけど、その時にこの曲がもう一段深く好きになるのかも、。

 

とっても満たされていて温かい気持ち。この日の気持ちを、感情を、ずっと持ってたい。おバカだから時に忘れちゃうかも知れないけど。

ビーバー有難う。ビーバーをここまで繋げてくれたその周りの人も、今私の心に住んでくれてる人たちも有難う。本当に、”一人で生きていたならば”、こんな満たされ感も感情も一生持たなかった。この曲も元々素晴らしかったし好きだったけど、この日のお陰でさらに深みを増しました。

 

人間としての生を生きれば生きるほど、噛めば噛むほど味のあるバンドだとわかった気がした。それもまた生きる理由にしたい。あとそれぞれの明日に行ってらっしゃいと言ってもらったので明日もその先も生きます。

 

***

後日談。その後行きたかった友人と有明アリーナに行けました。尊かった。何度でも有難う。

 

アセクシャルの話

 

(今回は簡潔にするためにアセクという括りにしております)


アセクシャルであることで、はああああああああサゲ〜〜ってなったので久々の文章供養タイムです。

***


別に隠しちゃいないので言うけど、私はアセクシャルです。人に恋愛感情を抱かない、人に性的欲求も抱かない。男女の前に人間という枠組みが強くあって、それで好きか好きじゃないか。そんで好きだったら皆好き、以上という感じ。ドキドキとかそういうのもない。

自認したのは大学2.3年くらいかな、そしてそう思うようになった根本の価値観も自分の中では多分分かっている。

 

好きになってもらっても同じ気持ちを返せない、(応える以前に無理な人もいたけど)他人との感覚が合わない分からないってのを繰り返してる中で、あれ、なんか違くね?笑って思い始めたわけです。嫌な言い方をして突き放すなどをしてしまったこともあるのでそれは懺悔。

一方で好きになった人間は男女問わず好きであることを示すので勘違いが起こったであろうケースも身に覚えがあり、以降は異性の友人と仲良くなるのには身構えるという。帰国子女の人なら気軽にハグもできるけど、日本育ちの異性にはできなくなったり。既に大好きゾーンの男友達に大好き!!って言ってたら気軽に好きって言わない方がいいって注意されることもあったり笑 彼は帰国なのでそこまで気にしてなくてよかったけど。パートナー持ちの異性の友人はマジ注意よ…距離感間違えたら爆発必至。

 

その中で今日、自分の中でちーん…ってなったので書こうと思ったわけです。きっとアセクシャルにはあるあるでしょう。

 

 

容姿的には周囲からブスと言われる(言われてたら都度燃やしてたと思うが)こともなく育ち、寧ろ褒めてもらえることもあるけれど、彼氏がいない・作ったことがないといえば、何故かと訊かれ、恋愛感情がない、興味がないと答えれば「可愛いのに勿体ない」とか「出逢ってないだけだよ!」とか耳が腐るほど聞かされて毎回ああまたかって感じ。可愛いからなんだよ恋愛感情がないって言ってんだろ私の話聞いてたか?!?!?!っていう。笑 

褒めてくれてるんじゃん、と思う人もいるだろうけど、そういう問題ではない。そもそも何故?と聞かれて答えたのに対してあなたの私に対する評価はいらないだろうと思うのです。要するに恋愛のレールに乗らないのがおかしいという押し付けでしかなく、勿体ない、という発言がもう…。あとそれ容貌で価値づけるのはルッキズムだからやめよう…って思ってる。

(勿論褒めるのは各自の美的センスありきでもあるし、可愛いと言われて悪い気はしないけど、だけどそれを相対的に評価して位置づけるのは違くない?っていう、、説明難しい)

ちなみに今までで言われて一番傷ついたのは、「病気なの?」って言われたこと。病気なのって言われて、私って本当は他人に興味ない冷たい人間なのかな、って地味にヘビーな重しになってる。私やっぱりおかしいのかな?もしかしたら女の子が好きとか??って考えたこともあるし。

病気かなんてそんなの私が知りたいし、いわゆるマジョリティの恋愛ができたらどんなによかっただろうって。今でもどっからズレたんだろう?って思うもの。(小学校の時は○○君が大好きだったし、中学前はある子が好きだったの覚えてるのでそういう感情は昔は多少あった様子)

 

悪気がないのは分かってるけど萎えるよね。恋愛してる人がそんなに偉いんかって。ぐっちゃぐちゃな恋愛してる人も世の中いっぱいおるのに。

 

 

一応、社会におけるマイノリティのことを少しでも誰かが知ってくれればと思って、恋バナでは聞かれれば毎回自分のことを伝えてるけど、わざわざ律儀に答えるなんて、抉られる行為をする辺り私ドMなのかな…。そんなんやめて、「いい人いないんですよね〜」とかぼやかしとけばいいのかもだけど、そんなんもできない性格ぴえん。

勿論この気持ちって自分の世界の中だけの話で、他人と比べている訳ではなく、ストレートな恋愛や結婚が全て美しいものでもないことはわかっているけど、でもそれでも自分の中で生きづらいなぁという気持ちは絶対的に存在していて、それも含めて全てが嫌だ…自己嫌悪。


私の友人たちは皆優しいから、本当に親身になって話は聞いてくれて、一緒に泣いてもくれるけれども、やっぱり感覚は違うのでどこか噛み合わない。それもしんどい。いやとても感謝はしているが、まあ自分の世界にない価値観について話されてもそりゃそうだよなって感じです。なのでこの話を気軽にこの人にする!!っていう存在もいない。仕方ないけどね。

**

 

自分の気持ちを検証するべく、何もしていないかというとそうでもなく。それに一人より誰かと嬉しいことも嫌なことも分かち合う人生はとても素敵だから、パートナーはやっぱり欲しいと思ってもいる。

だから一時期は好きになれるかな?と思いながら人と接してみたり、合コンに誘ってもらったり、友情結婚のサイトも見たりしてみた。けどやっぱりどこかズレていて。(友情結婚とは言うが、別に結婚したいわけではないんだな…とか)合コンでは私恋愛感情ないんです友達作りに来ましたってぶち込んでごめんなあの時の男性陣。懺悔(2回目)。

一方でアセクシャルのコミュニティで人と会うとかもしてみたけど、そっちはそっちでそもそものバックグラウンドやら価値観やらが違くて詰みました。

テラハやら花束みたいな…といった類のものも、まっっったくよく分かりません!!漫画とか小説の恋愛の方がまだただのフィクションとして尊い…って思うくらいよ。

 

 

そして本日のメインテーマ。まあ上記の葛藤やら変遷やら自覚やらを経て、じっくり考えるじゃん。大好きな友人で尊敬するところもたくさんあって、この人がパートナーだったらずっと心安らかだろうな〜いいな〜って人もいる(いた?)んだけど。ほぼ高確率でその人がアセクである事はないわけで、そしたら恐らく一生噛み合わないわけで、一生道は交わらない。しかも日本育ちだなんてハグもできないし脈絡なくぶっこむこともできないというか気がひける。

恋愛感情はないんだけど一緒にいてくれたら嬉しいって言われたところで相手も死ぬほど困るやつ、笑  言う勇気がないんだねと言われたらぐうの音も出ない、自分でも私こんなにチキンだったっけ??!ってなってる…でもどうしたらいいか分からんのです。向こうもそんな話は一切しないので、そもそも切り出すとは?っていう。(私が恋愛感情ないというのは確か知っているはず)

物理的にそんな頻繁に会う所にもいないから、私がその人に対して思ってることは全て平行線というか。どっかでもう存在忘れようって思えればそれが楽だけど、普通に大好きなのでできないし、手詰まり感がすごいんだよね。所詮言い訳と言われればそれまでですけど。

本当、その人がパートナーだったら私最強では?ってくらいには一緒にいて落ち着ける人なんだけどね…。で今日再度「この気持ちはどこにもいかないな」と認識して自滅してると言うわけ。理性が崩壊して感情的になれるならそれもいいけど、いかんせん理性が強い。ちなみにこれを120パー読まないことは知ってる。現実的にも気持ち的にも、もう殆ど会わないんだろうな。

あと私には障害を持つ兄がいるので、パートナーになればほぼ必然的に家族のことを一緒にしょっていくわけだけど。恋愛感情がそこに存在してるわけでもないのに、この特有の感情?立ち位置?を一緒に背負ってよろしくね!って、烏滸がましさマックスという引目もありまして、まあ拗らせてるよね。

でも既に書いた通り、私にとっては大事な存在なので、会わなくてもそれは絶対に変わらないけど。

(ここまで読んでそれ普通に恋愛感情として好きなのでは?って思った人いるかもしれないけど、違うと断言しておきます)

**

 

そんなこんなで、パートナーが欲しいという気持ちは変わらないけれども、やっぱり一人で生きていくんだろうな〜って。元々友人で+アセクシャルの人なんて確率0に等しいよなそりゃ。

そして残念ながら、”ズレる”という言葉を使っている時点で、自分で自分の認識を受け止めきれてないんだろう。マイノリティであることに向き合いきれてない。


かつ、どこか親にも引け目を感じてしまう。きっと孫の顔見たかったろうなあとか、お兄が障害者で結婚とか難しいだろうに私もか、って思ってないかなとか(多分これは思ってないと思うけど)。両親のことだから寧ろ一人で寂しくないかなって心配してくれてるんだろうなとか。

こう思うと自由のない(お見合いのようなもので結婚をしていた時代)家族の構築の方が良かったのかなんて思ったりもするけど、それはそれで別の苦しさがある。自由からの逃走とは良く言ったものだよね。

 

自認というか、恋愛感情一切なくなったきっかけはわかっていて、心のどこかでそのせいにしてしまっている自分も本当に嫌い。遣る瀬無い。

ちなみに、今恋愛をしている全人類は本当に尊いことだと思うのでそのままでいてください。

**


今日こんな苦しい気持ちになってしまった理由というか出来事は、単に私がチキンだからっていう明白なものなんだけど、泣くだけでなく整理したかったので、文章として供養します。なむなむ。

こんなんでも明日から5日間仕事頑張ろうって思う私偉いなあまじで。目腫れてませんように。アセクの本を読んで古今和歌集でも眺めて寝ます。

 

*追記1: 久々にビーバーのhomeを聴いて、別れが悲しいのは大きな意味を持った人と出逢えたという証拠ってまた教えてもらったので大分元気出ました。そもそも別に永遠の別れはしてない😇

*追記2: 川上未映子さんの「夏物語」読みました。恐らく主人公はアセクの類だろう感じで、ひいひいなって共感?しながら読んだ。(子どもについては自分の納得してない世界に自分の可愛い子を産むなんて私には絶対できないので共感はゼロだった)

 

 

とある友人に捧ぐやつ

 

 

(とある友人に捧ぐと言いつつ、本人は多分一生気づかない気がする。でも個人的にはある意味ショッキングなことで、自分のこともまた少しわかった気がするので書いておきます。)

 

私は自分で言うのもなんだけど基本的に友人のカウンセリングをする側というか、もたれかかってもらう側にいると思っている。

知らんけど何故か突発的にやばいという時の電話がかかってくることとか(普段はないのに)、普通にランチしてたら相手が突然泣いてしまった(もしくは私が泣かせている…のか…?)とか。

 

それがどういうメカニズムでそうなってるのは正直よく分からない笑、のでこの人々の相談?相手は私に務まるのかと思ったりもするけどそれはさておき。

 

*****

 

前置きはそんなところで、一方私は真の意味で弱音を吐くことは無い。増してや(悲しいとか苦しい由来で)泣きながら他人に縋るなんて私にとっては本当にあり得ないことで、大好きゾーンの中にいる人たちの中でさえ、まじでほぼ皆無。嬉しくて泣くのは良くあるけど。

勿論このラインまではいつも話しているからとか、自分の中で腑に落ちたor全てではなくとも消化できたことは話す。それは私の核で価値観だから。

でも核の先にある、向き合いきれていない自分のガチの深淵はあまりにドス黒だなと自覚しているかつ外に出しても何にも成らないから出さないようにしている。ていうか口にするのも反吐が出る。

あとはそもそもコントロールするのも割と上手いので、飾ったりとかうまく回避した回答では無い、本音というやつはあり得んほど表に出ない笑 当然家族にも死んでも言わない、言えない。別に不仲ではない。

 

ほぼ、と言ったのは実は2人それができる相手がいるから。どちらも高校の友人。2人は、普段「私は私だから大丈夫」ってしれっとしてる自分がドンガラガッシャーーン!!!って崩れる瞬間を見せれる、本当に尊い友人たち。鬼優なのでいい子いい子してくれます、好きです。

(1人は今少しだけ心が遠いところにいるけど、でもその人の存在も私にとっては絶対なのできっとまた近づくと思ってる)

 

で本題、何がショッキングだったかって、どうやらその相手が増えたことなんですよ。これを宛てている人のことです、本人はマジで絶対読まないだろうなウケる。何年後か分からないけどいつか読ませよう

 

これについて、すっっっごい尊いなって暢気に思いながらも今回はぶっちゃけ不思議で堪らない。高校はさ、行事も人間関係の枠組みも多いから心通わすも本音出すのも楽じゃん。何かのタイミングであることを相談した時とか、そもそも青春真っ只中で今より心も不安定だし。

でも今回は大学の友人。大学学部が同じというだけで特に密度の濃い関係性を保てるような共通の枠組みにいた訳でもなく、お互い直感的なところから始まってぬるぬるっと(?)仲良くなっていったという。いや密度の濃い時間は過ごしたんだけど、自分に高校ほどの衝動行動とか不安定さが無かったから不思議&ショッキングなのです。(入試の為に死ぬほど自分の中身と殴り合ったこともあり大学生中はしれっとしてることのが多かったと自覚している)

 

というわけで自分なりに分析?解釈をしてみた!!!!

 

*****

まずシチュエーションから思い返してみる。

私が突然ギャン泣きする時に共通しているのは、それまで普通に話していたのに、何かの話の拍子で突然涙が出てきてしまうこと。

しかも何故か決まって夜の公共の場&毎回外のその辺のベンチ的なところで。日比谷の滅茶苦茶キラキラ✨したとこでやってしまったこともある。傍目にはただのヤバいやつだよね

その瞬間はいつも「私は神である!!」なんて繕ってる自信なんて皆無になり、文字通り目から水、弱音というか本音ゲボゲボ。これが醜態じゃなかったら一体何?っていう。

(公共の場でギャン泣きする度通行人のお目汚ししてごめんなさい…と思うけど止まらないので仕方ないてへぺろ)

 

 

シチュエーションは分かった。じゃあ次にその人たち自身に共通してることって何でしょう。結論、分かりませんでした。強いて言うなら私の友人たちの中でも群を抜いて優しい・お人好しとでもいうのか…?

考えてもとりあえずシチュエーション以外の自分の曝け出し要因は分からん。なんで今回、そこまで共通の枠組みの中にいなかった友人がそうなったのかも分からない。なんか多分見抜かれてるからもういいか、みたいな、もやもやっと感覚はあるけどきちんとした言語化は不可なのでとりあえず諦めます。

 

ただ二つ確信したことがある。

一つは、私が誰かに縋りギャン泣きした時から、私の中でその人の存在が絶対的になるということ。なんだろう、一回醜態晒しちゃったからもういっかっていう。ストッパー外れる感じ。

もう一つは今回の友人がそうなるまでに高校の友人と比べて長ーい時間がかかってること。枠組みがない分時間はかかるけど(通算今年で6年目)まだここまで成熟する関係性を自分は持てたんだって、奇跡じゃないですか?(クサいって思った人は修行が足りないので滝行でもしてきたらいいと思うよ)

 

だって理性と知性で無駄に賢くなっちゃってる年でももう一段階深く付き合えるって尊くない??一方それって「私これからもっと君に寄っかかっていくね!よろ!」って言ってるのと同義だからちょっとごめんねとは思う。しかも残念ながらそういう相手には赤ちゃんor5歳児モードの瞬間が増えてしまう。本当に3人ともご愁傷様です有難う。勿論その分私も絶対負けずに支え返すよ

 

とまあ、あんまり締まらなかったけど分析&解釈はこんなところ。

正直大学ではこういう相手は多分できないと思っていた。のですごいなー、本当に好きだなって噛み締めましたとさ。ちゃんちゃん!

 

*****

 

補足しておくと、私にとってのそういう相手が大好きゾーンの中でも激レアだからといって、大好きゾーンの他の人たちを実は信用していないとか絶対ではないとかそういう訳でもなく、なんか突発的に醜態晒すことで私の中でのその人に私が勝手に役割を追加してしまった、という感じ。

(役割の例を挙げるとお馴染み大好きTみ氏は、醜態を晒すのはしないけどこれまた私にとって絶対的な人で、唯一叱咤してパワーをくれる・しっかりしてて論理的?な相談ができる友人)

 

 

2021年の抱負

 

明けましたおめでとう!

 

2020年はコロナもあったけど、一人暮らしを安定させて新しいこと始めるっていう目標がメインだったのでハードルも高くなく、達成できた!達成度は体感80パーくらいかな

 

○2020年の目標

・どんなに他人が正しくなくても穏やかを崩さない、正しいことは小声で言う
・一人暮らしの中で今までの強靭な精神力保つ
・仕事は産まれたての子鹿の気持ちで
・社会活動含め新しいこと始める
・素敵なライフパートナー逃さないよう努力する
・向こうで大好きな友人つくる

 

 

それで大事な2021の抱負ね。

 

・お金と将来について考える。自分がどう在りたくて、どう働きたくて、どう生活したいのか考えた上で目標立てて行動してく

・仕事も仕事以外も頑張る!!ボランティアとか社会的活動含む

・上で書いたものを到達するために必要な勉強をする、それを続けること。サボらない

・自己開発のための投資を惜しまない

・言葉の遣い方を丁寧にする

・惰性で遊ぶ・人と付き合うのやめる。

・明日やろうとか今日はいいやとか止める

・惰性でスマホとかネトフリとか見るの止める


投資について2019年から2020年にかけて色々考えたけど、Time is moneyだなってすごい実感した(プラスころな)、から今年のテーマは打倒惰性。テーマソングはビーバーの閃光!

 

お金について考えることも大事だけど、親孝行ももう少ししたい、いつ親いなくなるかわからんし。


とりあえず2021年もしれっと生きるわ!

 

 

最近何かが戻ってきたから記録として書いとく

 

 

この前、瀧本さんのnoteを読んで、過去2.3年ほど低迷していた熱が戻ってきた気がするので、記念(?)に書いておこうと思う。

 

f:id:onasubi:20200910225255p:image

(これ↑、今はnoteに全文はない)

 

順を追って書くと、ここ2.3年悟りすぎてたって話。色々勉強もして社会の仕組みを知れば知るほど、改めて世の中の優しくない面をいっぱい知って、どうなってんのなんかもう無理じゃね???個人的には優しい社会目指して生きてるけどあれれ??みたいな感じで割と諦めモードの割合が強かった。笑

 

だから取り敢えず、ほんとに手が届きやすいめっちゃ身近な範囲で少しでも良い影響力を持てたらいいな、で収まってた(甘んじていたとも言う…。)自分にできることなんてそれくらいやん、って。で実際それはそれなりにやってきたはず、私から元気もらったって言ってもらえることも、他者への影響を意識し始める前より増えたと思うし。(逆も然り!皆大好きいつも有難う🥰)

でもじゃあその手の届く範囲?を広げるための努力を何かしてたかって言うと全くしておらず。自分でもまあ全否定はしないけどこれじゃダメじゃんね??って薄っすら思ってはいた訳ですよ。

 

でも瀧本さんのnote読んで、ガリレオ天動説地動説のパラダイムシフトっていう概念が今の私にスッと落ちてきた。特に何も変わっているように見えなくても良い、世代交代で古い考えや習慣が死んで将来の世代に繋げることで変わることだって確かに真だな、と。

 

私は自分の、というより社会の何処かにある誰かの苦しさを見るのが無理すぎて、(私の詳しい生態は以前の記事とか参照)逃げてた・なんも大して変わんないから諦めてた。

でも将来世代に希望を渡せるかも!!!と思ったらスイッチが入りました…。個人的に感じる苦しさもあるけど、自身のことにしろ社会に蔓延する悪意?についての苦しさにしろ、それらは全て一旦横に置けばいいということに気付いたの!!!!(遅い

だって苦しいから・何も変わらないから何もしないって(薄々思ってたけど)結局自分でいっぱい、自分が苦しいからっていう動機からじゃん…でもよくよく考えたら自分の苦しさなんてどうでもいいんだった😂だって生きることにも死ぬことにも意味なんてない・人生クソゲーだなと思ってるくせに自分軸持たせるのは矛盾よねって話。

 

そんなこんなで、なんか最近すっっっごくしっくりきてる…しかもここ2ヶ月くらい、行動こそ正義、みたいな概念に触れることが何故か多かったからそれもあってすっかり駆り立てられた笑笑

忙しくなるかもしれない、訳わからないこともあるかもだけど、本来の私って自他共に認めるそこそこ熱い人間で、その熱さが(行動を伴う形で)戻ってきた気がする。この数年は熱と悟りっていうかなり相反する概念がそのまま両極端にあるだけで、真ん中のつなぎの行動がなくって、しっくりくることなくぽっかり空いてた。お帰り私!笑笑

勿論やれることを改めて考えた今、悟ってた2.3年も必要だったとは思う。そもそも生きてるだけで偉いもの…

 

そういえば最近読んだフロムの『よりよく生きるということ』にも現実主義を基盤におけって書いてあったんだよね!!(引用: 「生と自己自身と他者に対する信仰は、現実主義という盤石の石のうえに立てられねばならない」)

 

*******

 

長くなったけど、結論としては手の届く範囲を少しずつ確実に広げていきたいってこと。具体的には私より下の世代に関わりたい。色んな苦しさを私たちの世代で少しでも減らして、良いものを繋げるためにも。

そんな感じで、実は最近小中学生に勉強教えるボランティア始めました!別に超素晴らしい頭脳持ってる訳じゃないけど、そこそこではある(はず)だから、活用して、言葉にしづらいけど良いもの、良い何かを伝播させていけるようになるんだ。何故勉強かというと、私の持ってるなけなしの考える力とか知性を少しでもお裾分けできたら一生の力になるんじゃないかとおもて。

(特に下の世代って、積極的に関わる場所持たないと絶対関わらないよね。それもどうかと思うけどまあ仕方ない)

 

あとはSNSは相変わらず身近な人へのしぇあはぴとして活用できたらいいな〜!そして引き続き身近な人も大切にするよ。あとは他にも何かできること考え続ける!環境のことについても何かしたいな

 

 

自分軸で考えると生きる意味も死ぬ意味もないけど、この世に存在してしまっているからには私より若い世代の力になれるように、と思って労力費やせるなら生きてる意味あるよね多分。誰かに生きづらさを感じさせるような思考も社会も私らで終わりでいい、まじで🤗

 

少しずつでも積極的に自分が関わる範囲増やしていく!!あでも絶対に価値観の押し売りはしない!!!(押し付けられない限りはね)

 

瀧本さんと瀧本宿題の企画をしてくださった方に感謝。アホコロナには負けないぞ〜

 

世の中のカオスとか

 

また世の中と人間に対する絶望度ボルテージが最強になってしまって昂ってるから、文章にして供養する…*支離滅裂注意

 

今また世界があからさまに混沌としているなと。black lives matterとか、香港の件とかね。

私は価値観の根本に"障害者の兄"がいて、小さい頃から人々の兄に対する悪意、偏見、差別を見てきて、苦しかった。純粋に理解できなくて。だって障害があろうが無かろうが同じ人間で、嬉しければ笑うし悲しければ泣くし。私のことも愛を持って接してくれてて、だから私も兄のこと好きで。何かある度に、「はいストップ!!!!!あなたたちも家族いるよね??!!兄は私の大事な家族なんだけど!??!殺!!!」って何度泣いたか知れん。ちびっこだったから全然何もできたこと無いけどね。それにこれが私の琴線なのだと理解したのは高校の時で、それまで無自覚に蓋をしていたせいでそれこそ涙腺崩壊したし。(それまでは正直引け目に思う自分がいたんだと思う、情けない話だけれど)

 

今回も今まで世界のカオス見て悲しくなってきた時も同じ気持ち。snsで流れてくる映像やら記事やら見てたけど、今回のことだけで言えば、友人の言葉を借りるなら殺される恐怖っていうのがある。

いずれにせよ、この世の誰であってもだよ。どっかの知らない人はどっかの知らない人の大事な人・家族であって、そんで大体の人は自分にも大事な人いるじゃん、その気持ちがあるはずなのになんで、って思うと止まらない…自分が悔しんだって泣いたって何もできることないのは分かっているが。そして自分の感受性が強すぎて感情移入してしまうの、自分にとってヘルシーじゃないとはわかってるけど。

 

今年の明けにも似たような感じで悲しくて泣いてた。トランプがイランとバッチバチし始めた時。イスラエルコーカサス三国辺りのバッグパックいけなくなった原因だったからそれもあって悲しかったのは勿論だけど、あの時割と本気でまた戦争始まるのか?ってぶっちゃけ本気で思って、苦しかった…

あとは今すぐ思い出せるのは、イスラエル人とどっかで会って喋った時。彼ら、本当にパレスチナ人を多分人とも思ってないというか。ただしそこに悪意は無くて純な思いでそういう風に本気で信じてる。あれもなんか当てられて鮮明に記憶に残ってる。少し議論したけど平行線とはこのことかと思った。詳しく?はNas Dailyって人のイスラエルパレスチナについての動画参照。ちなみに悲しいことだけれど、今後一生イスラエル人にこの話は触れないと誓った、要するに諦めてしまった…

国内だと最近はテラハのこととか。ああコロナでもクソみたいな話いっぱい出てきてたよね、国内外共に。まじでくそだった。他にもたーくさんたーくさん思い出せば思い出すほど心が沈んでいくことありすぎる。(私の場合、大きい出来事を皮切りにあらゆるものが溢れ出してきてまう)普段それなりにへらへらしてるから理解されづらいけど、私が人生クソゲーって常日頃言ってるのはまさにこういうことで。

 

こうやって、何かで一歩進んだと思ったら別のことで千歩後退したり、一生何も変えようとしない・変えられない人間ってなに?どこまで愚かなの??いや別に自分がそこから洩れてるとは言わんけどまじで何なんだろう。この気持ちどこに持ってけば供養されるんだろ…

はーあ人間やだやだ人類滅びればいいのに、ほんとくそ。「私は私!あなたはあなた!相容れないねさようなら!」ってでできない人間の多さよ…。なんでその代わりにあらゆる意味での暴力やら何やら持ち出すんだ?これを出来なくさせる業って一体なんなの?人間ってなに、ゴミなの?自分を大切にしてほしいくせに他人に敬意も尊重もくそもない人いっぱいいるのどうして??他人がそんなに羨ましくて疎ましいか?その人にもその人なりの地獄があるとは思えないのか?別にアメリカのblmの話だけでは無くて、日本の障害者のことも他のこともそう、なんなんだろほんと

 

じゃああんたはどうしてんだ、ともし誰かに聞かれたら、私なんてくそちっぽけなので特にできることは大してないと答える。でもだからせめて出会った人には最大の敬意を込めて接しているつもりだし、自分の周りにはいい影響として存在できるように、軸を持って自分を保って、日々の行動に落とし込めるように、って少しずつ少しずつ努力してるつもりではある。だって社会も人生も、毎日を生きて人と関わって影響し合って作っていくものだから。出来ているのかは知らんけど。(そしてちなみに自分の命でこの世の悲しいことが減るなら喜んで差し出そうと思ってた時期もある)

別に一つ一つの大きなムーブメントに参加しなくたって、毎日の選択肢で社会への影響を考えることもそのうちの一つだと思う。社会って結局人と人との繋がりの集合体なわけだから、自分のどういう思考・行動が何に繋がってるかって考えることは馬鹿にできない。だから私は選挙に行くし、家族には選挙行けってキレて行かせるし、お金はすごくすごく考えて使うとか、買い物では少しでも長く保つ・たくさん愛着持てるもの買うし、他人には敬意と穏やかさと寛容を持って接したいし、大好きな人たちにはたくさんの愛とハグをあげて、自然も大切にしたいし、たくさんのことに感謝をしていたいし、万人や大人数に伝わらなくてもこうして思っていることを臆さずに伝えていきたい。勿論できていないこと、無知でいることたくさんあるから満足なんか死んだってできないんだろうけどな。一回誰かにこういう話をしたら、そんなに考えてて疲れないかと聞かれたことがある。二択で答えれば確かに疲れる、神経使う、気も使う。でもどちらの自分、どちらの未来が好きか考えたらこれらを考えないっていう選択肢基本的に存在しない。

ともあれ人生ほんとにクソゲーだよなあ。私自身の人生が特に、というよりはこの人間社会に生きるということそのものがさ。平安時代なら即出家してたわ。唯一の救いはこれを吐き出してまた違う視点から返してきてくれる友人とひたすら受け止めてくれるであろう家族がいることだけ。口が悪くてごめんなさい。おやすみ